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秋葉原無差別殺傷事件(3)

 ここ数日、「秋葉原無差別殺傷事件」でいろいろなブログを検索しているが、加藤容疑者(以下、彼という)への「自分勝手」「甘えている」というキーワードが目立つ。彼を擁護する訳ではないが「彼はそうすることしかできない」という、彼の両親によって作り上げられた、あまりにも哀れな境遇は理解されないようである。要するに「自分勝手なことをいいやがって」という彼への怒りはある意味正しいが、ある意味、的外れなのである。

 彼の思考は自己中心的ではあるが、頭の中には「世界は自分のために回っている」という感覚はない。彼にはまず「自分だけが良ければいい」という意識がないのである。自尊心の欠如から、もともと彼には主体性がないのだから当然といえる。

「自分だけ」には、明らかに自分と比較する他者がいる。しかしながら、彼の視野の中に、自分以外の他者は存在しない。「自分だけ」には、明らかに自分がこうしたい!という意識がある。しかしながら、前述の理由により彼には主体性がないのである。

 通常、比較する他者がおらず、かつ自尊心が欠落している場合、すべての元凶が自分自身にあるように感じる。自己を嫌悪し、その絶望感から自己を抹消しようとする行為が自傷や自殺である。よく山の中で狭い車中で男女が寄り集まって自殺する輩がいるが、彼らは「誰もいない真っ暗な山の中」で「狭い車内でくっつきあって」などという、一生のうちに何度あるかわからないうらやましい状況なのに、パンツを脱いで気持ちイイことではなく、練炭を焚いて自殺してしまうのである。やれやれマッタク、もっと違うことをやれ!と思うが、これは彼らが他人などまったく見ていないという証拠である。

「甘えている」とは、自分で何とかせず他者にやってもらうことだとすると、彼にはやってもらう他者が存在しない。「甘えている」とは、努力をせず他者に依存することだとすると、彼には依存する他者が存在しない。

 努力とは、自己の鍛錬である。自己を鍛錬するのは上昇志向の現れである。これは自己をより良くしようという気持ちである。しかしながら、彼の自己は、彼の中では排泄物以下の評価である。自尊心のなさから自己肯定感が欠如しているのである。これでは努力のしようがない。

 余談だが、自尊心の欠如は、依存症を伴うのが一般的である。たばこ、薬物、SEX、恋愛、収集等々。駅でたばこを吸っている人をよく観察してみればわかるが、たばこの、荒っぽい・男らしいという作られたイメージと違って、意外におとなしそうな人が多いことに気がつくはずだ。そして彼が選んだ依存は携帯サイトである。この手の事件が起るたびにこの手のメディアがやり玉に挙がるが、依存することに問題があって、その対象には何も問題はないのである。

もし、彼の掲示板への書き込みに「人殺ししたいなんて書き込むのはやめろよ」と誰かが書き込んでいたらどうなっていたのだろう。もしかするともう少し違う展開になっていたのだろうか。いまさらだが、残念に思う。

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